アキレスか?亀か?ピアノの未来とは
おはようございます。
坪井佳織です。
TR-808の開発者で、MIDI規格設立にも貢献された菊本忠男さんインタビューシリーズの第8弾です。「こんなすごい話が無料で読めるなんて!」と嬉しい感想をたくさんいただいております。わたしもそう思います!間違いなく楽器の歴史に残るお話を、読者のみなさまと共有できるのが嬉しいです。
本日は、菊本さんがローランドで最後に手がけた製品「V-Piano」の開発について、お話を伺います。

まずは、どういう経緯で、V-Pianoを手掛けることになったんですか?

「それまでいろんなことにチャレンジして、バリフレーズも終わって、こんな妙なのばっかり作ってたらあかんのちゃうかってことになって、ローランドはやっぱり正統な楽器を作らな、ということで。
少し話はずれるんだけれども、先日、落合さんと話したときに・・・」
あっ、ちょっとお待ちください。
補足します。
2024年3月、ローランドの浜松研究所で「テクノロジーには思想がある。電子楽器の未来に示唆するものとは」というシンポジウムが開催されました。そのとき、落合陽一さんと対談されたんですよね。

(2024年3月に開催した電子楽器に関するシンポジウム。残念ながら動画はありません)

「落合さん独特のね、『質量への憧憬(しょうけい)』という独特のフレーズがあるのでね、じゃあ一緒に出るのだったら、僕はそれに対する返歌として、『慣性への憧憬』と言ったんだけども。
演奏しようとするとき、自分の体の持っている、あるいは、鍵盤の持っている反発力みたいな、これを慣性というんですね、モーメントの。
これは演奏の中でものすごく重要なことで、音楽を耳で聴くだけじゃなしに体全体で聴くというね、それは、ローランドが実体のある楽器を提供していく上で大きな意味があるんですよ。
ライブ演奏の楽器が、ローランドのメインのビジネスだということを言うために出したキーワードなんだけども、落合さんの『質量への憧憬』に加えて、『慣性への憧憬』でも、楽器をもっとやりましょう、ドラムでもピアノでも、体を動かす、そういう提案だった。それがこないだのメッセージだったんだよね。
本当はそれが言いたかった。
もっと楽器本来のところへね、戻ろう、と。
V-Pianoも、VP-9000で『どう使えばいいか分からない』と怖がられたところから、『本来の楽器へ戻ろう』ということで始まったわけ」
それで、それまでのイノベーション的楽器から、王道中の王道、ピアノにいったわけですね。V-Pianoは、どのようなコンセプトで進めていったんですか?

「単にヴィンテージを追いかけてもね、たとえばどれほどロボットが見た目で人間に追いついたって、〝不気味の谷〟だといって、気味悪がられるじゃないですか。
ピアノも同じでね、アコースティックに近づけば近づくほど非難されるんですよ。
『アキレスと亀』という話があるんだけども、知ってる?」
いえ、ごめんなさい、存じませんでした。
その後、調べましたので、僭越ながら解説します。
「アキレスと亀」とは、古代ギリシャの哲学者ゼノンが唱えたパラドックス(逆説)です。俊足のアキレス(人間)と亀が競争しようとするとき、遅い亀にハンディキャップとして先行させます。その後、アキレスはすぐに追いつくわけですけれども、追いついたときには亀はまたわずかに先に進みます。その差はわずかでも無限なので、永久に追いつくことはない、という仮説です。
つまり、ヴィンテージ(=アコースティック)を電子楽器がどれほど追いかけても、永久に追いつくことはない、ということですね。


「実際には、有限の時間で亀に追いつき、追い越すことは可能なわけだから、スマートに追い越していく方法を考えようということで、ヴィンテージ&ヴァンガード(前衛、先駆者)というコンセプトを立てました。
ヴィンテージを追いかけつつ、ヴァンガードとして超えていこう、という。それは梯さんからお褒めいただきましたよ」

ヴァンガード面は、具体的にはどんなアイデアだったんですか?

「タイムトリップはうまくいかなかったんだけれども、たとえば、演奏中にビブラートをかけられるようにして、つまり、チューニングをずらすというようなことをやりました。
チューニングをずらしてホンキートンクみたいにすることは、ピアノの文法というか、作法の中にも一応あり得ることだよね。
実際、坂本龍一は片手にチューニングハンマー持って、演奏したというからね、彼はビブラートをかけたかったんじゃないかと思うんだよね。
それから最初のダーンというアタックをもっと伸ばすというね、スタインウェイだって、きっと、もっと伸ばしたかったんだと思うんですよ。でも、当時の物理的な限界があってできなかった。思いません?電子ならできるからね。
普通ピアノというのは、弦に銅が巻いてありますよね、それを銀製にしたらどんな音が鳴ると思いますか。燻銀の、もっと重厚な音になると思いませんか。
銀の持つイメージを音にしようと。
こういうような提案をアメリカに持っていったわけ」
ごくっ・・・、それでどうなったんですか?

「スコット・ティブス(※)に『デンジャラス・・・』と言われました」
えぇ・・・っ!!
編集部注:
スコット・ティブス(Scott Tibbs)さんは、Roland US(アメリカ)のシンセ、ピアノ、キーボードのプロダクト・スペシャリストです。また、小さなオーケストラを率いる指揮者でもあり、クラブDJイベントなどにも顔を出すクラシックとダンスの両刀使いのミュージシャンでもあります。
スコット・ティブスさんのV-Piano音源(製品はRD-2000EX)の演奏は、こちらの動画で聴くことができます。
Roland RD-2000 EX Stage Piano | Sound Demos >>

「そんなことやったらね、せっかくのV-Pianoの品位が落ちると。だからやめてくれ、と言われました。
最初に言った、アタック音をずーっと伸ばすというのもね、国内の担当者に『それ以上やったらピアノの枠を超えてしまう、ピアノじゃなくなりますよ』、と言われた。
ヤオヤ(TR-808)のキックの音もね、あれ、伸ばしたときに反対された。こんな下品なことやめてくれ、と。そんなのローランドから出したら恥ずかしい、と。せっかくシンセなのにね。
でも、僕と梯さんが『嫌ならノブを廻して伸ばすのやめたらいいやないか』と進めたんですよ、そうしたら市場ではみんな伸ばして使ったでしょ」
ピアノの世界はちょっと難しいですよね、踏み込むのが。

「従来の楽器で演奏している人からするとね、邪道ということなんだな。
だから、僕のやりたいことは、V-Synthでもできなかったし、V-Pianoでもできなかったし、V-Drumsは練習にしか使ってもらえていないし(※)、Vシリーズで全部失敗してきてるわけ」
全然、失敗ではないでしょうけれども、菊本さんの思い描く世界はまだまだということなんですね・・・。
編集部注:
現在はアコースティック・デザインのV-Drumsが多くのミュージシャンのステージで使われていて、サンプラーやパッドと組み合わせたり、曲によって音色を切り替えたりといった電子ならではの使い方も普及しました。ただ、見た目がアコースティック・ドラムと変わらないため、ぱっと見てV-Drumsと気付いてもらえないのですが・・・

「エレクトリック・ギターは電気で成功したでしょ。あれと同じことがやりたいんだ。あの流れね、ローランドのVはそういう意味だったんです。アコースティック→エレクトリックの世界をね、エレクトリック→デジタルの世界へ移行させていこうと。
取って変わるということではなくてね、ヴィンテージを引き継ぎながら、ヴァンガードにもなろうということだったんですけどね」
菊本さんの目指すところまで完全には実現できなかったとのことなんですが、ギリギリの音はV-Pianoに入っていますよね。
あの、銀弦ピアノは、実際に物理的に作ったとしたら、ああいう音が鳴るんでしょうか。

「いや、それは分からない。
たぶん、鳴らないと思うんだよね。
僕がやりたかったのは、『銀にしたらどうなるだろうか』を想像する感性が大事だということ。だから『物理モデル』と言わずに『感性モデル』と言ったんですよ。「物性」より「感性」をと。
人々が求めている音というのは、物理現象に忠実な音とは限らない。その物理的な限界こそが伝統的な良い音、名器の基準になっている部分もありますから。
『銀弦と聞いたときに想像するいい音』を追求したかったんだけどね」
だれかー!
銀弦ピアノ、作れませんかー?
菊本さんのアイデアはいつも概念や哲学から来ていて、「じゃあどういう音か」というところを限定されなかったんですね。だから、それをバシッと受け止めて音として返せるサウンド・エンジニアとの相乗効果で、数々の時代先取り製品を世に送り出してきたということなのかもしれません・・・。

(初代V-Piano〈2009年発売〉)
こうして生まれたV‑Pianoは、従来のサンプリングとは全く異なる“生きた”ピアノ音源として進化を重ねていきました。現在も、ステージ・ピアノのRD‑2000 EXやシンセのFANTOM EXなどに搭載され、世界中のミュージシャンに愛されているそうです。今なおフラッグシップ機の核となっているなんて、すごいことですね!

こちらの写真は、菊本さんが定年退職される際の集合写真です。V-Piano製品リーダーの鈴木さんと菊本さんが被っているのは、菊本さんお手製の「アキレスと亀」だそうです(笑)。なんでも作る・・・(笑)。
さて、次回はついに菊本さんシリーズの最終回・・・。現在の菊本さんが取り組まれている活動についてご紹介いたします。
(2026.07.16配信号)