ローランドを襲ったDX7ショック
メリークリスマス!!
坪井佳織です。
TR-808の開発者で、MIDI規格設立にも貢献された菊本忠男さんインタビューシリーズの第5弾です。
本日は、第1弾で紹介したTR-808開発のあと、電子楽器業界にデジタル化の波(通称DX7ショック)が押し寄せた当時のお話を伺います。

(ローランド初のデジタルシンセD-50と菊本さん)
まず、当時の社長、梯さんは菊本さんが前職で先進のコンピューター技術を扱われていたことが楽器のデジタル化に繋がるだろうと見込んで、依頼されてたんですか?

(菊本さんからご提供いただいた写真です。左:菊本さん、右:当時の社長の梯さん)

「梯さんは初期のマイクロ・コンピューターをご自身で組み立てられて『デタラメ38(DATA RAME 38)』という名前を付けてました(笑)。

(梯さんの自作コンピューターDATA RAME 38)
梯さんは早くからコンピューター技術の習得を社員へ奨めていました。
1976年にNECから発売されたTK-80というトレーニングキットの購入に補助金を出してましたからね。当時、大阪、日本橋の電気店界隈では多くのローランド社員がそれを求めてうろうろしている、という噂を聞いた憶えがあります。
しかしそんなローランドでも、当時は社員達もデジタル化への明確なビジョンはなく、漠然とした不安があって辞めていく人がいるような状況でした。ヤマハさんはスタンフォード大学から10年も前に独占的に技術導入、専用半導体工場の建設などで、着々と進んでいるように見えました。
私自身も途方にくれましたよ。
本当に、雲をつかむような話だったね」
その状態から、どのように突破口が見つかったんですか?

「その頃はまだ8bit、16bitの時代やからね。
どうやってコンピューターで音にするんだろう、と思ってたら、77年、入社時に梯さんからもらっていた雑誌、『Computer Music Journal』に掲載されていた論文に、24bitや32bitのデータを扱うんだというようなことが書いてあって、あ、8bit、16bitじゃないんだ、そんなに幅が広いデータを扱うのかと(笑)。メモリーが8bit単位だったから、それを横に3つも4つも並べないといけない。そんな高精度コンピューターは、当時の民生機器では存在しなかった。
それを作るということが分かって、具体的な道筋は見えないものの、霧が晴れて峠を越えたような気がしましたね」
そのときは星合さんは会社にいらっしゃったんですか?
あ、星合さんとは、このメルマガにたびたび出てくる、現役のレジェンド・エンジニアです。菊本さんの右腕として活躍されていて、今回も取材をフォローしていただきました。
菊本さんがTR-808を完全アナログで作ったあと、世の中的には既にデジタル化に動いていましたが、菊本さんは梯さんに「もう一度、アナログでやらせてほしい」とTR-909の開発に取り掛かられました。そして、金物(シンバル類)はどうしても間に合わないと、急遽PCMで、入社間もない星合さんがほぼひとりで担当されたという・・・。このエピソードについては、バックナンバー『TR-909開発はまさかの』をお読みください。


「当時、入社3年目の松岡久典君という人がデジタル化の重要な役割を果たしてくれました。
入社早々、リズム・マシンのDR-55の商品化を担当したフルート奏者で、コンピューターゲームの達人でした。
TR-808、TR-606、TB-303、MC-202の開発に携わった後、DX7をキャッチアップすべく、汎用のセミカスタムLSIであるゲートアレイを使って、SA(Structured Adaptive)方式による初のデジタル・ピアノRD-1000のハードウェア設計に従事してもらいました。
星合君は909の開発完了とともにデジタル化プロジェクトのチームに加わりました。
他にも遠藤君、田辺君、門屋(かどや)君とか、素晴らしい人たちが同時にいいタイミングでローランドに入ってくれて。みんな優秀ですごかった。
SA方式には先ほど述べた高精度、高速のメモリーと演算回路が必要です。
あの人らがいなかったら、この後続く、一連の技術開発はできてないな」
※編集部注:
遠藤さん:TR-909の開発時にアナログ・テープに録音したシンバルの音をデジタル化して波形編集したのが遠藤さんです。また、ローランドの歴代の音源チップを設計された方で、「遠藤さんが居なかったら弊社の音源チップは無かった」といわれるくらいの凄腕エンジニアです。
田辺さん:初のデジタル方式であるSA音源の初期の音創りのツールを担当、その後はシーケンサーの基礎開発に従事されたエンジニアです。
門屋さん:音信号を周波数軸と時間軸でパーシャル(部分)分解して再合成できる特殊なFFT(高速フーリエ変換)を開発。以後、ローランド独自の音源開発の強力なツールとなりました。
そうだったんですね、タイミングや人材にも恵まれたんですね。
デジタル化というと、1983年、ヤマハさんがDX7を発表したときのお気持ちを教えてください。

「あれはショックだったね。
すぐに入手して、解析したんだけどね、それまでの知識や技術と、偶然当たったということもあって、電卓を片手に、半日くらいでほぼ中身が分かっちゃった。だけどコンピューターと違って、はるかにスケールの大きな計算をしていてね。
音楽雑誌なんかでは、究極のシンセサイザーですねとか言ってて。梯さんと二人でそれを読んで、これはもう、当時はそれを追いかけるっていうのはちょっと無かったですね・・・。僕もどうしていいかわからなかった・・・」
当時、もうMIDIの開発は終わってたんですか?

「MIDIはもう、82年には基本はローランド案に決定したという話だったので酒井さん※に全部お任せして、デジタルに専念させてもらいました。
酒井さんといえばね、ベロシティを7bit(128段階)でできるかという話をしたときに、一番最初にクレーム付けてきたんですよ。7bit(128段階)でダイナミックなベロシティなんか表現できないよ、と。
で、僕はね、そんなことはない、人間には128段階聴き分けなんぞ、ほとんど無理や、と。
それで自分でやってみると言って、音量の聴き分けテストをやったらね、『ほんまや、4bit(16段階)でも分からへん』言うて」
※編集部注:
酒井さん:MIDI規格開発を菊本さんと共に支えたローランドのエンジニア。
すごいですね、その争いもすごいけど、あっさり認めるのもすごい。

「1981年に、ヤマハさんがGS1、GS2というデジタルピアノを出されたんです。高額だし、大量のセラミック・パッケージ(電子部品)がダッと並んでて、これはコストがかかりすぎて楽器にはならないと、僕は高を括ってた。
そうしたらDX7が出たんだね。
分解してみたら、GS1、GS2のときの大量の電子部品が、わずか数年でLSI(大規模集積回路)チップ2個になっていた、これはもう追いつけないとショックを受けたんです。
元々僕は、FM音源の仕組みは知っていたんだけど、予測困難で狙った音が作れないため楽器としては使えないと思っていた。倍音が不調和な、金属的な音しか出ないんですよね。
しかし、ヤマハさんはオペレーターにフィードバックをかけることで、豊かな倍音が調和した音を出すことを発見されたのです。これと金属的な音との組み合わせであのキラキラとしたDX特有のエレピ音色などを作って楽器として成立させたんだね。
マツダのロータリー・エンジンも同じですよね、使い方をうまく開発した会社があったからこそ、基礎技術が活きた、ということですよ。
チャウニング博士※のFM音源は、ヤマハさんでなければ楽器になっていないと思いますよ」
※編集部注:
ジョン・チャウニング博士:1967年にFM音源を発見した音楽家
一方、ローランドはどういう経緯でデジタル化が進んでいったんですか?

「僕はピアノの音はデジタルでいけるんじゃないかという見通しがあったんですよ。
最初に思いついたのは、グラニュラー方式といってですね、大きな計算資源が必要ですが、当時のスパコンに利用されていたアーキテクチャと組み合わせれば、プリセット型のデジタルピアノならできるだろうと思って、研究し始めたんですね」
それがローランドの前々社長、三木さんが手がけた、SA音源ですね?

(前々社長の三木さんとSA音源搭載のRD-1000)

「実際はね、難しかったんだけどね。三木君はよくやったと思うね。資料もなしで、バックアップもないのに、よく。実は、最初に担当した人は投げ出したんですよ。
今にして思えば、単に運が良かった。
当時浜松勤務だった三木君が大阪に長期出張させられてね。僕が彼に与えた指示だけでね、よくやったと思うね。辛抱強くやってくれたんだよ。感謝してますよ。
まずはゴーンという低音とキーンという高音が出たのでね、そのゴーンを聴いて梯さんは『これはいける!』って細江工場(本社工場)建設を決断されたのね。
あとは真ん中だけだからすぐにできると思ったんだけど、中音域が難しかった。人は中音域を聞き慣れているから、納得のいく生々しさになかなかできなかったんだね」
このときできたのが、ローランド初のデジタル音源、SA音源を搭載したRD-1000でした。

・・・つづく!
ふぃ〜〜、なんと、メルマガ始まって初、壮大過ぎて年をまたいでしまいます・・・(驚)。
この続きは2026年1月にお届けします。
みなさま、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。
(2025.12.25配信号)