幻のローランド製ロボット
おはようございます。
坪井佳織です。
ローランドの技術を牽引され、TR-808やMIDIなど、大きな功績を残された菊本忠男さんにお話を伺っております。とても有名な方で、書籍や記事は山のように公開されていますが、今回初めて知る裏話やどこにも公表されていない当時のお気持ちもたくさん伺えて、本当に楽屋メルマガを書いててヨカッタと思っておる今日この頃です。

本日は、菊本さんの幼少期からローランドに入社するまでの、めっちゃおもろいエピソードを余すところなくお届けします!
さて、菊本さんはどういうお子さんだったんでしょう?


「当時は珍しかった、左利きの子どもだったんですね。左手で絵を描いたりして、大人をびっくりさせてました。
左利きは右脳優位だというから、工作したり絵を描いたりする子どもが多いそうなんですよ。
でも学校に入った頃に習字を右で書くように練習させられて、だんだん嫌になって絵も描かなくなりましたけどね、工作はやってました」
どんな工作ですか?

「小学校に入った頃だったかな、父親がモーターのキットを買ってくれたんですよ。
エナメル線を巻いてね、電池をつけてモーターを回すんですよ。そうすると、オゾンの匂いがね、するんです。分かります?オゾンの匂い」
いや・・・、ちょっと分からないです、嗅いだことないので(笑)。

「自分の作ったものが回転するというのがね、もう大興奮ですよ。それだけで。逆にいい時代だったかも分からんね、今はなんでも揃ってるから」
お父さまはなぜモーターキットを買って来られたんですか?
そういうお仕事をされていた?

「いや、父は炭鉱夫だったんですよ。
元々は大阪のデパートで働いてたんですけども、徴用っていう、いわゆる軍事産業に駆り出されたんですね。明石のね、川崎航空という、戦闘機の隼(はやぶさ)なんかを作ってた工場。
徴用が終わったら今度は召集されて。その頃に爆撃が始まったんですよ。
すごいですよ、爆弾が落ちるっていうのは。僕らは布団を被ってね、大人が『なんまんだぶ、なんまんだぶ』って言ってるのを聞いてました。
爆撃機が行ってしまって外に出るとね、空が真っ暗で、工場全体も住宅も全部燃えて、本当に夜みたいに真っ暗。そういう体験をしましたよ。
今生き残る中ではね、爆弾を経験した、残り少ない世代になりましたね。
それで焼け出されて、当時は石炭の需要が急に上がったところですから、父親も九州へ行って炭鉱夫になりました」
そういうことですか・・・。

だから僕が子どもの頃は、九州の炭鉱街で過ごしました。
炭鉱夫はね、ライトを頭につけて地下へ潜っていくでしょ。バッテリーを背負っていくわけ。充電型の。
そのバッテリーを借りてね、自分で作ったモーターを回したんですよ。
電池なんて高くて手に入らないんだけど、親父がバッテリーを借りてきてくれて。
それがわたしの最初のメカニズムの体験になりました」
そのときはどういう気持ちだったんですか。

「もう胸がこう、躍りましたよ。
自分が作ったものが動く、という。
それからオゾンの匂いもはっきり覚えていますね」
音楽の原体験みたいなものはあるんですか?

「当時ラジオは並四型(なみよんがた)といって、流れてくる音は酷いものでした。炭鉱の街だからね、ライブミュージックは炭坑節という、音楽的にはプアな時代でしたね。
それで4年生くらいのときだったかな、大阪に戻ったんだけど、隣の家が裕福でね、電蓄があったんだ、隣に」
デ・・・ンチク・・・?

「電気蓄音機。
従来の、針を落としてビニールのレコード盤をグーっとゼンマイを巻いて回すんじゃなしに、まさしく電気的にね、モーターでレコード盤を自動的に回してカートリッジが下りてきて、電気的な増幅をした、つまりアンプの付いた、今でいうステレオ装置みたいなものですよ。
その音を聞いて、もう本当にびっくりしてね、こんな良い音がする物があるのかと。
だから僕にとっては音楽よりも、音そのものが大きな興味の元になりましたね」
お隣に電気蓄音機があったのはたまたまですか?

「偶然。
お金持ちだったから。
本当にすごい音だった。
それで今度はオーディオマニアになって、それと同時にアマチュア無線にも夢中になりました。
それが中学生の頃で、高校の頃にはモールス信号もやって、海外と通信もやってましたよ」
高校は工業高校に入られたんですよね?

「工業高校はそういう人たちがみんな集まってくる学校でしたからね、当時。
オーディオとアマチュア無線のクラブに入りました」
その後、就職されたんですか。

「神戸工業という、今の富士通ですけど、真空管を作ってた会社に入りました。
僕が入社した頃にはもう日本で初めてトランジスターを、ソニーより先に開発、製造してたんです」

(神戸工業入社間もない頃の菊本さん)
へぇ!
すごい会社だったんですね。

「有名な人だと、ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈さん、赤﨑勇さんを輩出した会社です。
高校卒業したてでしたけど、アマチュア無線をやっていたから、即戦力になって重宝してもらいましたよ。配属された部署の上司や先輩たちは皆優秀な技術者で大いに啓発されました。
トランジスターの、当時ゲルマニウムのインゴット(塊)をスライスしてね、それをカットするのね。
当時、女性社員が顕微鏡を見ながらね、配線するんですよ。そうするとトランジスターが1個できあがる。
それが今は非常に小さくなって、スマホでも100億個以上も入ってるんだけど、当時は手作りで。
僕は真空管、トランジスターという流れをね、まぁそういう年代だったから、幸運にもそういう流れを全部踏むことができたんですね」
たしかそれから大学に行かれたんですよね。

「神戸工業に入っていろいろやってるうちに、やっぱり大学を出てね、もっと専門的なことをやってみたいな、と。それで会社は2年半くらいで辞めて、昼働きながら夜大学に通いました。結局、そんなに勉強はしなかったけど(笑)。
大学を卒業してからまた別の、同じような会社に勤めて、その頃からコンピューターがぼちぼち始まったのね。
インテルの8008というマイクロプロセッサを追って、船井電機、日本システム開発などの会社を転々とし、研究開発部でいろんなことをやりました」

(1972年4月に発表されたインテル8008)
音の仕事に繋がっていくのはその頃ですか?

「ボウリングブームが去って廃れたときに、任天堂がね、ボウリング場を使ってレーザー式クレー射撃場を作るということになったんです、電子式の。あのレーンのところに立って、スクリーンに投射された光クレーに向けて撃つんですよ。
その音響部分を担当してくれと言われてね。
当時、合成の知識もなかったんで、いわゆるメロトロンのようにテープに音を録音してですね、再生する仕組みでした。
クレー射撃で実際に撃った音をマイクロフォンで録って、8トラックのカートリッジテープに入れて。
それで銃の引き金を引くとテープがグッと動いて、再生される。しかもステレオで、パーン!と、射撃する人に向けてスピーカーから鳴るわけ」
メロトロンとは、1960年代に開発された、テープを記録媒体とするサンプル音声再生楽器です。
その音はどうやって用意したんですか?

「京都郊外のクレー射撃場に録音しに行きました。
ボーナスを全部はたいて買ったTEAC A-7030というテープレコーダーを持って行って、マイクロフォンを立てて録音したんですよ。TEAC A-7030は、当時のオーディオマニアがこぞって憧れた名機でした」
え、それってサンプリングじゃないですか!
しかも私物!?

「そう、私物でサンプリング。オーディオマニアだったから。
ところが100回録っても100回ともウグイスの鳴き声に邪魔されるんですよ。今だったら合成するんだけどね、ちょっと残響も入れたりしてね。
ちなみにこのとき任天堂側の技術者は、のちに「ゲームの父」と呼ばれるようになった、横井軍兵さんでした」
えぇっ!?
あのゲーム&ウォッチ、ゲームボーイなどの生みの親の!?
「そう。軍兵さんは子どもの頃、高価なOゲージの鉄道模型を買ってもらえるようなご子息でね。近鉄百貨店阿倍野店(現在のあべのハルカス近鉄百貨店)の模型売り場でヨダレを垂らしていた私と同い年だと知って大笑いしました。
お互い鉄道模型が好きというのもあったけど、思考パターンも似てて、刎頸(ふんけい)の友(※)のような関係でした。彼はイケメンでね。
ある日、そのイケメンが『クレー射撃システム開発で連日の残業、休日出勤で稼いだ金が莫大になったので、ゲイシャを買いました』とニヤリと言うんですよ。
何事かと思ったら、後日サンプリングする予定の射撃場に向かう待ち合わせ場所に、軍兵さんがその中古のゲイシャに乗って颯爽と現れました。
ゲイシャとは、映画バニシング・ポイントで有名になった外車『ダッジ・チャレンジャー』だったわけです(笑)。
巨大なトルクの後輪で砂利を吹き飛ばしながらカッコ良く発進するゲイシャの後に我々のポンコツライトバンも慌てて続きました」
※ 刎頸(ふんけい)の友:互いのために首を刎ねられても悔いないほど、深い信頼で結ばれた親友
なぬ〜〜〜!?
めちゃすごい逸話じゃないですか!
「で、それをやっているうちにちょっと面白いアイデアを思いついたんで、特許出願したんですよ、そしたら任天堂が買いたいって。軍兵さんが伝えに来てくれました」
どういうアイデアだったんですか?

「"荒野のガンマン"っていってですね、二人で銃の抜き撃ち勝負をするわけですね。そのときに早く撃った方が勝ちという電気的な処理をするシステムを出したんですよ。
残念ながらクレー射撃システムもその対戦ゲーム機もオイルショックなどのために失敗することになるんです。
僕はその後、インテルのマイコン応用のシステムハウスに転職してプラント制御装置などの開発をしていました。大規模なシステムも面白いが、マイコンをもっとポピュラーな製品に応用展開できないかと思い始めていました。
そこへ任天堂から誘いがあって、ゲーム機にマイコンを利用したいと。もう行くしかないということになってたんですけどね、制服も決まってて」
「ですけど」とは??

「あるときFMラジオで冨田勲さんの名曲、ドビュッシーの『月の光』を聴きました。
それまでコンピューターや電子音といえば「ピー」とか「ガー」と鳴るだけだと思っていたけど、これなら音楽も作れる!と天啓を受け、任天堂にマイコンをシンセサイザーに応用した電子楽器を提案しました。
けど、任天堂さんは過去に楽器分野進出を試みて失敗した経緯があったようで、これには興味を示してもらえなかった。
ちょうどその頃にギター・シンセサイザーを思いついたんです。シンセサイザーを鍵盤でなく、よりポピュラーなギターで演奏できないものかと。
それで、部下といっしょに会社を辞めて、二人でそれを作ることにしたんです」
へ????
任天堂を断り???
すごい、すごすぎるパッションとエネルギーです。
でもきっと、その動機は自作モーターのオゾンの匂いや電蓄の音から受けた衝撃と同じ種類だったんでしょうね。
こちらが菊本さんが作ったギター・シンセサイザーです。

(写真上部が8ボイスの音源ユニット、下部がギター型のコントローラーです。コントローラーでは左手の指板は長軸方向にスライドするインターフェースになっていて、右手で8つの弦に見立てたスイッチで演奏する仕組みになっています。ちなみに音源ユニット右端にテンキーが2セット並んでいるのは、内蔵デジタル・シーケンサー!)

(当時菊本さんが出願した特許資料。左手のスライド式指板と右手の弦型スイッチという独自の構造になっています。ネックはテレスコピックに伸縮します)

(菊本さんが自作したボイス・カード。1枚で1ボイス発音。パラメーターを記憶することもできました。ギター・シンセの音源ユニットにはこれが8枚入っていました)

「これができたので、冨田勲さんに手紙を書いたんだけど、当時、そんなのがいっぱい届いていたんでしょうね、ご返事はいただけませんでした。
実は試作品をギターが弾ける友人に試奏してもらったら、気の毒そうに『これでは演奏できない』と言うんです。楽器演奏の経験も楽理もないド素人の独善案であったことを思い知った訳です。
そこでコンピューター制御によるポリフォニック・シンセサイザーだけでもと、冨田さんからのご返事を期待していたんです。
そしたらローランドがギター・シンセGR-500を出したので、彼らに技術を買ってもらえないかと。共働きでしたが預金も底をついていました。
当時の社長の梯さんに手紙を書いたら電話がかかってきた。それで難波の駅前の北極という喫茶店で会いました。その老舗アイスキャンディー屋さんのカフェは、今でもあるはずですよ」

(1977年発表の世界初のギター・シンセサイザー、ローランドGR-500)
えぇっ!?
すごい!
そういうことは頻繁にあったんでしょうか?

「梯さんはまめだからね、たくさんそういう売り込みもあっただろうし、頻繁に会いに行かれてた。
北極でギターシンセの紙の資料を見せて説明しました。そのあと自宅に来られて、現物を見てびっくりしてました。
梯さんにお会いしたのは1977年です。
同年、年末にローランドに入社しました。36歳になっていました。
僕は元々真空管から始まったアナログ屋で、30代にはもうコンピューターを使えるようになってましたから、アナログとデジタル、その2つの技術が交差する幸運な時代にいたわけです。今にして思えば、これが最初のハッピー・アクシデントですかね」
菊本さんは、「リアルな音を追求したはずが失敗作と言われて売れなかったTR-808が意図せぬ市場で評価されたこと」や「前職で当たり前のように使っていた技術が楽器業界では浸透しておらず、MIDIの開発につながったこと」などを、ハッピー・アクシデントと呼んでいらっしゃいます。

「ローランドが4ボイスのJUPITER-4を開発中だった時に、僕は既に8ボイスのギターシンセを作ってローランドに売り込みに行った。
コンピューターの世界では当たり前にやってることが、楽器業界では特別な技術になったんですね。しかし思い上がっていたんです。
音質や安定性、操作性、価格などの商品力は当時の米国のベンチャー同様、専門メーカーより劣悪だったかもしれません。梯さんはそれを見抜いた上で率直に指摘し、買い取りを拒否されました。
その代わりローランドに入社しないかと誘われてね。
実はこの頃には演奏もできないのに畑違いのベンチャーで失敗して、楽器への興味は萎えつつあったんです。当時は第一次ロボットブームの走りで先端のマイコンの応用例がいろいろ発表され始めていました。
次はロボットをやってみたいなという思いがあって、いくつかの応用例、楽器を演奏するロボットなど、構想をご紹介したんですよ。そしたら、ロボットをやってもいいって、梯さんが言うんです。
それでロボットやらせてもらえると思って入ったら、リズム・マシンをまずやらされて。話が違った(笑)」
なんと!!
まさかのローランド製ロボットが世に誕生してたかも・・・!
「ロボットをやってもいいから入ってくれ」とおっしゃった、当時の梯さんとしては、菊本さんにどうしても入社してほしかった、つまり、そのくらいローランドに必要だと見抜かれたのでしょうね。そして、まさにそれは当たったわけです。
もしも菊本さんがローランドではなく任天堂に入られていたら・・・、TR-808は世の中に無く、MIDIも今とは違ったものになっていたかもしれないですね。でも菊本さんが作られたゲームがある世界線も見てみたい気がします。
幼少期のモーターキットから電蓄、クレー射撃、ギターシンセと、TR-808やMIDIに美しくつながるストーリーに、どんどん引き込まれていきました。
菊本さんシリーズの次回は入社後に担当されたリズム・マシンDR-55についてお話を伺います!お楽しみに〜!
(2025.09.11配信号)